December 19, 2007

ノータリン女の風貌を問う

先週レンタルした七本の映画を返却する為、茶沢通りを歩く。バイクも自転車も壊れた今、俺にあるのは二本の足。茶沢通り、夢と夢を繋ぐ俺の愛するストリート。以前働いた雑貨屋を覗き込み、俺の中の伝説の喫茶店「エルマーノ」に足を踏み込む。そしてこれも以前、毎日の様に通ったレコード屋「flap notes」を覘きお決まりのルートを歩いて回る。夜は夜とて下北沢、野狐禅ワンマンライヴ観賞。斜め後ろの腑抜け女の歌声が耳障りでどうしようもない。俺は何度もその腑抜け女に合図を出し、片耳を押さえ、堂々と睨みつけもしたが、その小さな歌声は止む事がなかった(そんな事をしとる時点で俺は楽しめてない)。その場を離れればええのか?ノー、ライヴハウスは大入り、動く場所はない。声を出して止めろといえばええのか?それはもちろん何度も考えたがノー、言ったら言ったでその後のライヴも俺は楽しめん様になる。あの合図で気付かん時点で致命傷、トンだノータリン女のお出ましでもうどうしようもない。俺は何故、いつもそんな場所を選んでしまうのか。モラルの欠片もない、俺のはらわたを見事に煮えくりかえす輩は何処に行っても現れる。俺は運が悪いのか、はたまた考え過ぎなのか。そして、これはなるべくなら書きたくはないが、普段なら口に出したりもせんが、そういった行動をする類の女は決まって「ブサイク」なのだ。俺の今までのデータから言わせてもらうが、それは100%に近い確率でそうなのだ。モラルを考えろ、モラルを。この世であの場所でお前の歌声を聴きたい奴など一人もおらんという事実を受け止めろ。それは何よりも表現者に対して失礼にあたる。俺は何も合唱の場面での事に対して怒っとる訳ではない。静かに、静かに聴くべきシーンでのその行動に大して怒っとる。俺があの場で表現者の立場なら絶対に思う、あんな客は観に来る必要はない。何故なら心の中でも堂々と唄う事は出来るのだから。ライヴとは客の善し悪しで決まったりもする、その点で今日のライヴはもったいないライヴだった(お金がではなく、ライヴ自体が)。二十三日シオン観賞。俺はきっと泣く。


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P.S 写真は誰が書いたか分からんが何ともイカす、コンクリートに描かれた茶沢通りのジミ・ヘンドリックスさん。

at 23:58│Comments(0)TrackBack(0)│ │日々 

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