長編

July 06, 2009

長編・「愛すべき日々」 十四~十六

※一~十三は下段
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十四、

斉藤荘に到着した。ほとんどの荷物は東京駅のロッカーに預けてきたが、ハードケースは持って来た。斉藤荘は一軒家で、一階に大家が住み、二階を七部屋、「A~G号室」に分けて間貸ししていた。

大家のお婆ちゃんに挨拶をした。一階の大家の部屋で「広島から来ましてね」などと話をした後、去り際に俺はこのお婆ちゃんに笑いながら言った、

「東京のお母さんと呼んでも良いですか?」

俺は調子が良かったし、上手くやりたかった。そして自然とそう言いたい気分だった。

「良いよ、そう思ってもらって」

お婆ちゃんは笑った。

十五、

俺の部屋はE号室だった。この響きに俺は強く感動していた。部屋に入ると布団が置いてあった。枕もあったし冷蔵庫もあった。全て以前の住人が残していったモノだった。

俺は生活用品と呼べるモノをポット以外何も持って来てなかった。ポットがあればとりあえずカップラーメンは食べれるだろうと考えていた。冷蔵庫も布団も炊飯器もテレビもなかった。音楽を聴く機材だけはあった。冷蔵庫と布団が置いてあった事は大きな収穫だった。俺はどこの馬の骨とも分からん以前の住人が残していった布団と枕をこの部屋を出て行くその時まで使い続けた。無論、冷蔵庫も使い続けた。冷凍庫はなかったが、冷凍庫に入れるモノもなかった。おまけにカーテンも付いたままだった。カーテンが必要な事など、その瞬間まで気付いてもなかった。俺には運があった。

引越し屋が広島から運ばれた荷物を持って来た。運び出される楽器やらアンプやらを見ていたお婆ちゃんが言った、

「分かってると思うけど音を出すのは禁止だよ」

早々に釘を刺してきた。

「なんでやねん」、思ったが俺は、

「それはそうでしょう」

答えた。住みにくい環境を作りたくはなかった。とにかくこのE号室で、まずは音楽を聴ける環境を整える必要があった。

十六、

東京駅までロッカーに預けたままの荷物を取りに行った。俺は大荷物を抱えて、田舎者そのままの姿で山手線に座っていた。流れる景色を見やりながら俺の胸は躍り続けていたし、人の目など一切関係がなかった。

斉藤荘のすぐ裏には世田谷線の線路があった。電車の音が夜遅くまで響いていた。こんな光景は広島では考えられず、環境全てが真新しかった。

次の日、俺が東京でまず最初に手に入れるべきモノは明らかで、それは広島の女の子に預けてきた為、手元になかったレコード・プレーヤーだった。俺はお金を握り締めて渋谷の楽器屋へと出向き、ポータブルタイプではないどっしりと構えたレコード・プレーヤーを手に入れた。

そして俺が東京でまずやるべき事はバンドを結成する事で、その為に「メンバー募集」の紙を貼りまくる事だった。友人も親友も顔見知りも全くのゼロで、全てを一から築き上げる必要があった。いつまでも東京に来ただけで酔いしれ続けている場合でも馬鹿でもなく、俺は何かと焦っていた。仕事を探す必要もあった。俺にはどうやら仕事癖がついていた。東京での生活が本格的に始まろうとしていた。




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July 01, 2009

長編・「愛すべき日々」 九~十三

※一~八は下段

九、

寝台列車は走り続けた。いつまでも泣き続ける程に野暮でもなかった。大荷物を眺めながら、いよいよこの時が来たと胸を躍らせていた。頭に描いた事を実行に移した事実、これだけで俺は誇らしい気分になっていた。

朝、列車は東京に到着した。俺は大荷物のほとんどを駅構内のロッカーに預けて、とりあえず三軒茶屋に借りた愛すべき部屋、「斉藤荘」に向かおうと思った。荷物はまた後で取りに来れば良いと思った。距離感などまるでなかった。俺は20歳になっていた。


十、

2000年11月、19歳の時、俺は初めて東京という街に足をつけた。予め部屋を決めておく為だった。誰かがプレゼントしてくれた東京住宅情報誌を俺は読み漁っていた。いくつかの街の名前は既に俺の頭にあった。それは全て、ライヴハウスが数多く存在する街の名前だった。それは音楽雑誌を読みながら自然と頭の中にインプットされていた。

明け方、夜行バスは新宿に到着した。安い物件が数多く紹介されていた渋谷の不動産屋に行く事を決めていた。時間はまだ早く、俺はその不動産屋が開く時間まで渋谷の街を歩き続けた。初めて東京という街に足をつけるその時まで、俺は東京を外国の様に感じていた。広島の友達は「東京なんか住む所じゃないぜ」などと、住んだ事も町を出た事もない奴が語っていた。

渋谷の街を歩きながらすぐにその間違いに気付いた。すなわち「所詮日本やないか」といった気分になった。そして「広島も東京も田舎も都会も関係ないがな」と思ったと同時に、俺は東京生まれじゃなくて良かったとも感じていた。

そして気付けば俺は「渋谷タワーレコード」に辿り着いていた。探し歩いた訳でもなく、突然目の前に「渋谷タワーレコード」は現れた。東京に出て来る前に、俺はこの大型店に電話を入れて履歴書を送った事があった。開店前のガラス扉にへばりつき、俺は確かに感動を憶えた。不動産屋へと向かう歩道橋の上からは「HMV」の大きな看板が見えた。「住む部屋をとっとと決めて、余った時間でレコード漁りに繰り出そう」と俺は考えていた。

十一、

「四万円以内で出来れば風呂付、下北沢がベスト」

不動産屋の姉ちゃんに条件を告げたが、「東京は家賃高いですよ」とあっさりと断わられた。その代わりにと出された物件は「共同玄関共同トイレ風呂無四畳半」の三軒茶屋近く、若林という街の「斉藤荘」という三万二千円のアパートだった。線路図を見せられ、

「ここが渋谷でここが三軒茶屋、ここが下北沢で・・・」

説明された。

「へぇ、ほぉ、あぁ、そう」

俺は頷き続けた。

考えてみれば風呂付などあまりに贅沢で、俺は一番下の部分から始めるべきだと思った。下の部分から始めればそれ以上悪くなる事もなく、もし上り詰めたとしてもその時の気持ちを忘れる事もない。そして何より「共同玄関共同トイレ風呂無四畳半」という響きに対して俺は強いロマンを感じていた。おまけに三万二千円とは広島の家の家賃と全く同じ金額だった。


十二、

田園都市線に乗り込み不動産屋の男と三軒茶屋へ向かった。見るもの全てが新しかった。「斉藤荘」に辿り着き、その造り、その雰囲気、その部屋を見て、俺は他を見て回る必要を感じずその場で即決を下した。部屋探しには時間をかける予定だったが、俺にはここがぴったりだと直感し、そして「とっととレコード漁りに繰り出したい」という気持ちも強くなっていた。

十三、

部屋が決まればこっちのモンで、俺は安心に満ちた表情でレコード漁りに繰り出した。色々な街を徘徊し、何度も「所詮日本やないか」と感じていた。

レコードとCDを23、4枚手に入れ、両手いっぱいの荷物を抱えて歩いた。その時、何を食べたのか、どこで寝たのかはまるで憶えてないが、俺の胸は躍り続け、そして何かにとり憑かれていた。事を終え、俺は予定よりも一日早い夜行バスに乗り込み広島へと帰った。

お母さんはそのレコードを見て呆れ返り、女の子は「良かったね」といった面持ちで笑っていた。「聴かせたろか?」、俺は音楽が好きで、やりたい事が明確にあった。誰かはそれを「羨ましい」と言い続けていた。俺は19歳で、全てを捻じ伏せてやろうと企んでいた。それと同時に、一ヵ月後にはあの「斉藤荘」に住む事になるんかと、絵空事の様に感じていた。





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June 29, 2009

長編・「愛すべき日々」 六~八

※一~五は下段

六、

その時の俺とお母さんとの関係は最悪そのもので、会話さえロクになく、常に罵り合っていた。二人暮しで、二人共に疲れ果てていた。違いは俺には夢があるという事で、お母さんはもはや人生そのものに疲れ果てていた。

俺の楽しみは銀行の通帳記入を眺めて、確かに貯まっていく「数字」を確認する事だった。それ以前から俺は「家計簿」というモノをつけ続けていた。それはいつからか俺の「趣味」となり、様々なお金の計算は速くなった。

必ず20歳の誕生日までに、定めた120万円が貯まる寸法だった。いや、無理をしてでも貯めるつもりだった。実際に貯まっていくお金を目で見て確認する為、封筒にも何万円かずつを入れてヘソクリの様に隠しておいた。

お母さんは事ある毎に俺にお金を要求し、俺は文句を言いながら常に何万円かずつを渡し続けた。

「20万円あれば後は楽になる、そのお金はいつか返せる」

兄ちゃんは俺に囁き、俺は20万円を渋々銀行から引き出したが、そのお金が戻ってくる気配など微塵もなかった。俺はまず、その20万円の穴を埋める為に何度でもマイナスからやり直す必要があった。

ある時、包丁を突き出しながら叫んだ事があった、

「俺はお前にお金を渡す為に新聞配達を続けとる訳ちゃうぞ」

お母さんは「殺せばええがな」と寂しそうに呟いた。

今思えば恥ずかしいが、俺は何かにとり憑かれていた。

そんな日々が続いたが、ある日書置きがあった、

「怖い人が来て、とても怖かったから、悪いとは思ったけど封筒のお金を抜き出しました。ごめんなさい」

俺は何も知らず、状況をわきまえてもなかった。お母さんの胸中を察して、恥ずかしいやら憤りやらで頭がイカれ、外に飛び出し交互二車線の道路のど真ん中をワーギャー叫びながら走り続けた。

ある夜、お母さんが言った、

「もうどっか行くわ」

「どっかって何処や?」

「どっか行ってもう死ぬんや」


俺とお母さんとの関係は最悪そのものだったが、俺よりも辛い境遇の奴などこの世には腐る程に存在するという事実、それを思えばあまりに俺は幸せ過ぎるとも感じていた。ガスは止まったままで風呂には何日も入ってなかった。俺は事ある毎に女の子の部屋でシャワーを借り続けていた。

女の子に御飯を作ってもらっても、たまに外に食べに行っても、俺には後ろめたさが常につきまとった。「お母さんはこんな物食べてないんじゃないか?」、俺は強く両手を合わせる事だけは忘れんかった。そして作ってくれる女の子にもそれを強要した。言われてするのではなく、あくまで自然にそうであってほしいと強く望み続けた。パチンコ屋で支給されるおにぎりやらパンの残りを俺は大事に包んでお母さんに渡し続けた。

どんな事があっても東京に行こうという気持ちが揺らぐ事はなかった。お金もほとんど貯まった2000年11月頃、大家が家にやって来た。家賃は3ヶ月分溜まった状態だった。

東京に出て行く為に頼んだ引越し屋のダンボールが玄関先には既に置いてあった。意地の悪い顔をした大家はそれを見つけて言った、

「引っ越すんか?ところでその前に家賃払ってもらわんと困るわ」

大家の言う事は全て正論だったが、俺の目は激しくギラつき、精神はいつも苛立ちに満ちていた。

「引っ越そうが何しようが関係ないやろが、払えばそれでええんやろが」

敬語も何も関係なく、俺は気付けば誰にでも吠え続けていた。

この大家はすぐに黙らせてやる必要があった。手数料を取られる時間帯だったが、そんな事に構わず俺は銀行まで原付バイクを走らせて家賃3ヶ月分を引き出し、そして大家に「これでええやろが」と激しく突き出した。

七、

いよいよ東京に出て行くその日、すなわち20歳の誕生日、俺は友達に電話をかけ、ワンワンと泣いた。とんでもない事が始まる、東京に出て行くその当日に初めてそんな気分になった。それは誇らしい気分でもあった。知人を頼りに東京に出て行く訳でもなく、俺よりも前に出て行った奴など一人もおらんかった。俺は一人で誰も知らん場所へと出向き、一人で全てを巧みに転がしてやるつもりだった。二番煎じなど真っ平御免で、俺は何かにとり憑かれていた。中学生の頃から何かと一緒に過ごした9歳年上の女の子にコロンビア製のカラフルなポータブルレコードプレーヤーを預け、「これはお前が持っとけ」と気取り、笑い、そして「何でこんな大事なモノを?」と彼女は泣いた。とにかく、とんでもない事をやらかす気分だった。

なんだかんだで120万円以上が見事に貯まったお金を全て引き出し、俺は夕方から仕事に出向くお母さん、トイレでうずくまるお母さんにトランプの様に万券を誇らしげに広げて見せ、「これ取っとけ」と気取り13万円を手渡した。

「ええんか?」

お母さんは呟き、そして笑った。

「冗談かと思ったらほんまに行くんか?」

「行くってずっと言うとったやろ」


関係は徐々に良くなりつつあった。

仕事に出向くお母さんを見送った。「元気でね」とお母さんはさり気なく手を振り、俺は顔を見る事さえ出来ず、自転車に乗るその背中をぼんやりと眺めながら果てしなく泣いた。

東京に出向く手段はバスでも間違っても新幹線でもなく、寝台列車だった。一番遅い便は「0時33分発」だった。俺は切符を受け取ったがその切符には誕生日の「12月13日」ではなく、日付が変わった「12月14日」と記してあった。俺はそれが気に食わず、一便早い「21時31分」の便に取り換えた。切符には希望通り、誕生日の「12月13日」と記された。寝台列車はバスよりも新幹線よりも値段が高かったが俺は一生残るであろうロマンを忘れたくなかった。

そしてお母さんに書置きを残した、

「頼むからもう死ぬなんて言わんといてね」

目の前では口に出した事もない言葉口調で書き綴り、俺は笑ってしまう程に泣き続けた。

夜、女の子が駅まで車で送ってくれた。その女の子は11歳年上だった。俺は当時、幸せな事に年上の女の子達に守られていた。勝手で我儘な俺みたいなモンに何人かの女の子達が優しくしてくれた。俺は優しくされる事に滅法弱い性質だった。そして俺は我儘で傲慢でありながら極度の寂しがり屋だった。

八、

引越し屋には預けんかった荷物、ハードケースやら大型バッグやら、3人分以上の荷物に値する大荷物を抱えて寝台列車に飛び乗る為にホームまで歩くと何人かの男と女、バンド仲間達がお忍びで見送りに来てくれており、ある女は陰で見守り、ある男は俺の背中を叩いた。俺は嬉しくて心底驚いたがもう泣くのは止めにしていた。気掛かりは東京に対する不安ではなく、お母さんが一人になってしまう事だった。兄ちゃんは卒業後一流企業の寮に入り、お父さんは何処で何をしとるのかまるで見当もつかず、お母さんは夕方から数時間工場で働いて小銭を稼ぎ、そして俺は何かにとり憑かれて続けていた。俺を乗せた寝台列車は着実に東京へと向かっていた。

続く。

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P.S 

俺の人生は多分、この18~19歳の時期に最も強い影響を受けとるといえる。貧乏性とロマン、風貌と目つき、人との付き合い方としつこさ、その他諸々だ。一円を馬鹿にする奴を心底ハナで笑い、出された御飯を平気で残せる奴を毛嫌いし、格好だけの宙ぶらりん野郎とは話す気にもなれず、デリカシーの欠片もない輩には殺意を覚え、「メシ」「金」「死ね」「殺す」などと平然と呟くファッキン野郎の言葉には耳を塞ぎ、嫌悪感を露わに示す様になった。

この時期の俺も今の俺もさほど変わってない気がするが、東京に出て来てからその気持ちはより一層強いモノになった。ある女は「東京に行ったら人間が変わってしまうんじゃないか」と俺の事を心配していた。俺は「お前は馬鹿か、今まで俺の何を見てきた?」とそんな心配には耳も貸してなかった。

東京に出て来てから俺の気持ちは逆に強くなり過ぎ、破れてほころびた服を好んで着続ける様にもなり、何から何まで風貌が汚くなった俺の事を今やお母さん本人が毛嫌いする様になってしまったが、「あの育て方がもしも計算だったとしたら」と考えただけで鳥肌が立った。

東京に来て実際に離れてから、俺はその素晴らしさに充分過ぎる程に気付かされた。

こんな話は今までほとんど誰にもした事がなかった。する必要もなかった。でも俺はこの時期の事を一番本にしたいとずっと思っとる。近頃はこの文章の事だけを考え続けた。俺は一体何を悩んどるのかといった気分になった。そして俺は何日か前からこの時期の事を書き出す作業に着手した。「時期は来た」と勝手に捉えるに至った。あの頃の事を鮮明に思い出せる事実が嬉しかった。振り返る事も悪い事ではないと、俺は思っとる。

関係性はこうやって築かれた。罵り合いながら築く関係を俺は愛している。バットしかし、それは「愛」があってこそだ。

料理を目の前に感謝を忘れない 
両手を合わせていつもありがとうって思うよ

「お母さん、今日も御飯にありつけたぜ」
下北沢から遠くまで届ける

俺のお母さんが電話口に笑う
「あんた山程やる事があってええね」って笑う

「お母さん、まだ死んじゃ駄目だぜ」
俺がもっと偉くなる時まで生き続けてくれ

愛してる日々


東京に出て来て7年半が経過した2008年6月、こんな唄が意識さえする前に生み出された。俺は儲けた気分で、全ての事柄に感謝していた。成功も失敗も関係なく、どんな仕事につくかでもなく、どんな生き方をするかに対してのみに俺は命を燃やし続けようと思った。


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長編・「愛すべき日々」 一~五

一、

東京に出て来て初めての夏、すなわち2001年8月、「斉藤荘E号室」とネーミングされた共同玄関共同トイレ風呂無四畳半のブタ箱の様な俺の部屋にはエアコンはおろか、扇風機さえなかった。

四つ上の、話が噛み合う事など滅多にない兄ちゃんがこの時ばかりは俺に言った、

「おいお前、扇風機くらい買え」

俺は答えた、

「ほっとけ、そんな贅沢する為に東京来たんちゃうぞ」

お母さんはハナで笑った、

「アンタ、阿呆ちゃうんか」

その時、俺にはお金があった。広島で貯めた120万円がしっかりとあったが、俺はそんなモノにお金を使うつもりなど毛頭なかった。

俺は自分に酔っていた。いつか笑い話になるぞと言い聞かせ、そんな暑さよりもレコードやら楽器やらで床が抜けんかどうか、レコードが曲がったりせんかどうか、ネックが反ったりせんかどうか、汗を垂れ流しながらそんな事柄だけを気遣い続けた。

東京に出て来ると決めた時、俺は仕事やら何やらに追われて、東京にて目的が疎かになってしまう事を極端に恐れていた。

二、

20歳の誕生日までに120万円貯めてやろうと思った。高校を卒業して、新聞配達ーレンタル屋ーパチンコ屋のローテーションで、朝から晩までボロカス文句を吐き出しながらもとり憑かれた様に働き、俺は文字通り夢に溢れ、ドキュメンタリーと捉え、そしてどうやら矢沢永吉の「成り上がり」に強い影響を受けていた。

新聞配達は中学校に入学する前から続いていた。エレキギターが欲しかった。苦労を味わうべきだと思った。そして周りが手をつけてない事を誰よりも先にやりたかった。俺は毎朝鳴り響く黒電話で叩き起こされ、遅刻の常習犯だった。ギターは中学1年の12月に手に入れたが、俺は意地でも新聞配達を続けてやろうと思っていた。

パチンコ屋一本に絞った方がお金を貯めるには手っ取り早い事くらい俺にも分かったが、俺はそれを馬鹿みたいに拒み続けた。

「お前は馬鹿か?」「何でそんな遠回りするの?」と笑われもしたが、俺はその頃からどうやら不器用で遠回りを愛し、そして人に指図される事が何よりも嫌いだった。俺は意地と勢いと夢、そしていつか笑い話にする事だけしか考えてなかった。

ほとんど何も食べず、そして何も飲んでなかった。俺はいつもお腹を空かせていた。俺の「ケチ具合」は周りであまりに有名になったが、そんな事はどうでも良い事だった。「お前等とは目的が違う」と笑い飛ばし、周りはその徹底加減に驚いていた。何か食べ物や飲み物がなくなると決まって俺のせいにされた。俺はそれが嬉しかった。おーここまできたか、思った。「残った食べ物はこいつが全部片付ける」、そんな決まりが生まれた。俺が俺を作り出した瞬間だった。周りも呆れて笑い出した。俺は何かにとり憑かれていた。自動販売機もコンビニエンスストアも全てを俺は素通りした。外食なんて奇跡の出来事だった。レコードと服、そしてライヴ観賞の為に使うお金だけは別腹だったが、昼休憩には本を読み、レンタル屋とパチンコ屋へ行くまでの僅かな時間はただただ横になって過ごした。

三、

1999年12月13日、19歳の誕生日に俺は新しいエレキギターを手に入れた。それはエピフォン製で色は愛すべきエンジ、カタログを見て取り寄せ、値段は9万いくらだった。

お母さんは「そんなお金があるなら回してくれ」と嘆き、兄ちゃんは「こいつは気が狂っている」と哀れんだが、俺は大事な事だけは忘れたくなかった。お金を貯めながら、俺が必要とするモノにはお金を使い続けた。

四、

ある日、原付バイクでパチンコ屋へと向かう途中、車と接触事故を起こし、俺は倒れ込んだ。俺の原付バイクには何故か「サニーディ・サービス」とシンプルに書かれたステッカーが貼ってあり、運転手は「どこかの業者の方ですか?」と俺に聞いた。俺は適当な返事をして運転手と別れ、仕事を休んでゆっくりするには絶好の機会だと思ったが、俺はその夜もパチンコの玉を気が狂った様に運び続けた。俺は意地と勢いと夢、そしていつか笑い話に変える事しか考えず、主人公を勝手に演じ続けた。

パチンコ屋に高校時代の同級生の女の子が偶然やって来た。その女の子は卒業したら大阪でお笑いを目指すと言い続けていた。

「大阪には行ってないんか?」

「あぁ、それ辞めたわ」


こいつは頭がおかしいのかと本気で思った。何故、始める前に辞める事が出来るのか、俺にはそれが不思議で不思議でしょうがなかった。

楽しみは夜だった。詩を書いたり曲を作ったりしながら、座椅子に座りギターを抱えて電気も点けたまま毎日気付けば眠りについた。

五、

2000年4月、新しいバンドを結成した。俺はシンプルに「トライアングル」と名付けた。ドラムは顔見知りでベースはパチンコ屋で知り合った男、俺は新しいギターを弾ける喜びに満ちていた。完全に自分の都合で事を進めていた。ある時、ベースの男に「こいつは何か違う」という感情が生まれ、それは日々強くなっていった。俺は電話で何かしらの理由をつけ、「もうええで」とクビを宣告した。すぐ近くにおったであろう男の彼女が突然電話口にシャシャリ出てきた。

「アンタどういうつもり?ちょっといつも自分勝手過ぎるんじゃないの?」

女は吠え、割れんばかりの声で叫んでいた。俺の事が心底嫌いといった口調だったが、俺はその女と会った事も話した事もなかった。

「お前一体誰や?女が外野席からゴチャゴチャと口を挿むな、このタコ!」

俺は口が悪かった。散々怒鳴り散らした後、黒電話の受話器を叩き切り、このカップルを哀れんだ。「彼女がどうのこうの」、俺はそんな事柄が心底嫌いだった。

次のライヴも次の次のライヴも決まった状態だった。駅前で弾き語りをしていた話した事もない同い年の女の子に声をかけ、「ベースを弾いてくれ」と頼み込んだ。返事は二つ返事で「オーケー」だった。

2000年8月、「ティーンズ・ミュージック・フェスティバル」の予選に出場した。20組中3組が岡山大会に進出出来る仕組みだった。

俺は自信に満ち溢れており、「こんなんも通らん様なら直ちに解散してやるぜ」とメンバーに息巻いた。俺は自分に酔っていた。通常2曲までのところ、無理矢理3曲を詰め込んだ。俺は指図される事を極端に拒んでいた。ドラムセットの上に飛び乗り叫び続け、俺はステージで暴れながら感情を爆発させ、「分かる奴だけついて来い」と調子に乗り続けていた。重要なのはインパクトを与える事で、俺は自然と湧き出て抑える事さえ不可能な「パンク精神」とやらに酔い続けていた。

結果は予選敗退だった。俺は他の訳の分からんバンドが選ばれる光景を目の当たりにし、「ふざけるのもええ加減にしろ」と吠え続け、そして気付けば悔しくて泣いていた。バンドはその後ちょっとしてから解散した。東京に行く日が確実に近付いていた。


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