June 29, 2009
長編・「愛すべき日々」 六~八
※一~五は下段
六、
その時の俺とお母さんとの関係は最悪そのもので、会話さえロクになく、常に罵り合っていた。二人暮しで、二人共に疲れ果てていた。違いは俺には夢があるという事で、お母さんはもはや人生そのものに疲れ果てていた。
俺の楽しみは銀行の通帳記入を眺めて、確かに貯まっていく「数字」を確認する事だった。それ以前から俺は「家計簿」というモノをつけ続けていた。それはいつからか俺の「趣味」となり、様々なお金の計算は速くなった。
必ず20歳の誕生日までに、定めた120万円が貯まる寸法だった。いや、無理をしてでも貯めるつもりだった。実際に貯まっていくお金を目で見て確認する為、封筒にも何万円かずつを入れてヘソクリの様に隠しておいた。
お母さんは事ある毎に俺にお金を要求し、俺は文句を言いながら常に何万円かずつを渡し続けた。
「20万円あれば後は楽になる、そのお金はいつか返せる」
兄ちゃんは俺に囁き、俺は20万円を渋々銀行から引き出したが、そのお金が戻ってくる気配など微塵もなかった。俺はまず、その20万円の穴を埋める為に何度でもマイナスからやり直す必要があった。
ある時、包丁を突き出しながら叫んだ事があった、
「俺はお前にお金を渡す為に新聞配達を続けとる訳ちゃうぞ」
お母さんは「殺せばええがな」と寂しそうに呟いた。
今思えば恥ずかしいが、俺は何かにとり憑かれていた。
そんな日々が続いたが、ある日書置きがあった、
「怖い人が来て、とても怖かったから、悪いとは思ったけど封筒のお金を抜き出しました。ごめんなさい」
俺は何も知らず、状況をわきまえてもなかった。お母さんの胸中を察して、恥ずかしいやら憤りやらで頭がイカれ、外に飛び出し交互二車線の道路のど真ん中をワーギャー叫びながら走り続けた。
ある夜、お母さんが言った、
「もうどっか行くわ」
「どっかって何処や?」
「どっか行ってもう死ぬんや」
俺とお母さんとの関係は最悪そのものだったが、俺よりも辛い境遇の奴などこの世には腐る程に存在するという事実、それを思えばあまりに俺は幸せ過ぎるとも感じていた。ガスは止まったままで風呂には何日も入ってなかった。俺は事ある毎に女の子の部屋でシャワーを借り続けていた。
女の子に御飯を作ってもらっても、たまに外に食べに行っても、俺には後ろめたさが常につきまとった。「お母さんはこんな物食べてないんじゃないか?」、俺は強く両手を合わせる事だけは忘れんかった。そして作ってくれる女の子にもそれを強要した。言われてするのではなく、あくまで自然にそうであってほしいと強く望み続けた。パチンコ屋で支給されるおにぎりやらパンの残りを俺は大事に包んでお母さんに渡し続けた。
どんな事があっても東京に行こうという気持ちが揺らぐ事はなかった。お金もほとんど貯まった2000年11月頃、大家が家にやって来た。家賃は3ヶ月分溜まった状態だった。
東京に出て行く為に頼んだ引越し屋のダンボールが玄関先には既に置いてあった。意地の悪い顔をした大家はそれを見つけて言った、
「引っ越すんか?ところでその前に家賃払ってもらわんと困るわ」
大家の言う事は全て正論だったが、俺の目は激しくギラつき、精神はいつも苛立ちに満ちていた。
「引っ越そうが何しようが関係ないやろが、払えばそれでええんやろが」
敬語も何も関係なく、俺は気付けば誰にでも吠え続けていた。
この大家はすぐに黙らせてやる必要があった。手数料を取られる時間帯だったが、そんな事に構わず俺は銀行まで原付バイクを走らせて家賃3ヶ月分を引き出し、そして大家に「これでええやろが」と激しく突き出した。
七、
いよいよ東京に出て行くその日、すなわち20歳の誕生日、俺は友達に電話をかけ、ワンワンと泣いた。とんでもない事が始まる、東京に出て行くその当日に初めてそんな気分になった。それは誇らしい気分でもあった。知人を頼りに東京に出て行く訳でもなく、俺よりも前に出て行った奴など一人もおらんかった。俺は一人で誰も知らん場所へと出向き、一人で全てを巧みに転がしてやるつもりだった。二番煎じなど真っ平御免で、俺は何かにとり憑かれていた。中学生の頃から何かと一緒に過ごした9歳年上の女の子にコロンビア製のカラフルなポータブルレコードプレーヤーを預け、「これはお前が持っとけ」と気取り、笑い、そして「何でこんな大事なモノを?」と彼女は泣いた。とにかく、とんでもない事をやらかす気分だった。
なんだかんだで120万円以上が見事に貯まったお金を全て引き出し、俺は夕方から仕事に出向くお母さん、トイレでうずくまるお母さんにトランプの様に万券を誇らしげに広げて見せ、「これ取っとけ」と気取り13万円を手渡した。
「ええんか?」
お母さんは呟き、そして笑った。
「冗談かと思ったらほんまに行くんか?」
「行くってずっと言うとったやろ」
関係は徐々に良くなりつつあった。
仕事に出向くお母さんを見送った。「元気でね」とお母さんはさり気なく手を振り、俺は顔を見る事さえ出来ず、自転車に乗るその背中をぼんやりと眺めながら果てしなく泣いた。
東京に出向く手段はバスでも間違っても新幹線でもなく、寝台列車だった。一番遅い便は「0時33分発」だった。俺は切符を受け取ったがその切符には誕生日の「12月13日」ではなく、日付が変わった「12月14日」と記してあった。俺はそれが気に食わず、一便早い「21時31分」の便に取り換えた。切符には希望通り、誕生日の「12月13日」と記された。寝台列車はバスよりも新幹線よりも値段が高かったが俺は一生残るであろうロマンを忘れたくなかった。
そしてお母さんに書置きを残した、
「頼むからもう死ぬなんて言わんといてね」
目の前では口に出した事もない言葉口調で書き綴り、俺は笑ってしまう程に泣き続けた。
夜、女の子が駅まで車で送ってくれた。その女の子は11歳年上だった。俺は当時、幸せな事に年上の女の子達に守られていた。勝手で我儘な俺みたいなモンに何人かの女の子達が優しくしてくれた。俺は優しくされる事に滅法弱い性質だった。そして俺は我儘で傲慢でありながら極度の寂しがり屋だった。
八、
引越し屋には預けんかった荷物、ハードケースやら大型バッグやら、3人分以上の荷物に値する大荷物を抱えて寝台列車に飛び乗る為にホームまで歩くと何人かの男と女、バンド仲間達がお忍びで見送りに来てくれており、ある女は陰で見守り、ある男は俺の背中を叩いた。俺は嬉しくて心底驚いたがもう泣くのは止めにしていた。気掛かりは東京に対する不安ではなく、お母さんが一人になってしまう事だった。兄ちゃんは卒業後一流企業の寮に入り、お父さんは何処で何をしとるのかまるで見当もつかず、お母さんは夕方から数時間工場で働いて小銭を稼ぎ、そして俺は何かにとり憑かれて続けていた。俺を乗せた寝台列車は着実に東京へと向かっていた。
続く。

P.S
俺の人生は多分、この18~19歳の時期に最も強い影響を受けとるといえる。貧乏性とロマン、風貌と目つき、人との付き合い方としつこさ、その他諸々だ。一円を馬鹿にする奴を心底ハナで笑い、出された御飯を平気で残せる奴を毛嫌いし、格好だけの宙ぶらりん野郎とは話す気にもなれず、デリカシーの欠片もない輩には殺意を覚え、「メシ」「金」「死ね」「殺す」などと平然と呟くファッキン野郎の言葉には耳を塞ぎ、嫌悪感を露わに示す様になった。
この時期の俺も今の俺もさほど変わってない気がするが、東京に出て来てからその気持ちはより一層強いモノになった。ある女は「東京に行ったら人間が変わってしまうんじゃないか」と俺の事を心配していた。俺は「お前は馬鹿か、今まで俺の何を見てきた?」とそんな心配には耳も貸してなかった。
東京に出て来てから俺の気持ちは逆に強くなり過ぎ、破れてほころびた服を好んで着続ける様にもなり、何から何まで風貌が汚くなった俺の事を今やお母さん本人が毛嫌いする様になってしまったが、「あの育て方がもしも計算だったとしたら」と考えただけで鳥肌が立った。
東京に来て実際に離れてから、俺はその素晴らしさに充分過ぎる程に気付かされた。
こんな話は今までほとんど誰にもした事がなかった。する必要もなかった。でも俺はこの時期の事を一番本にしたいとずっと思っとる。近頃はこの文章の事だけを考え続けた。俺は一体何を悩んどるのかといった気分になった。そして俺は何日か前からこの時期の事を書き出す作業に着手した。「時期は来た」と勝手に捉えるに至った。あの頃の事を鮮明に思い出せる事実が嬉しかった。振り返る事も悪い事ではないと、俺は思っとる。
関係性はこうやって築かれた。罵り合いながら築く関係を俺は愛している。バットしかし、それは「愛」があってこそだ。
料理を目の前に感謝を忘れない
両手を合わせていつもありがとうって思うよ
「お母さん、今日も御飯にありつけたぜ」
下北沢から遠くまで届ける
俺のお母さんが電話口に笑う
「あんた山程やる事があってええね」って笑う
「お母さん、まだ死んじゃ駄目だぜ」
俺がもっと偉くなる時まで生き続けてくれ
愛してる日々
東京に出て来て7年半が経過した2008年6月、こんな唄が意識さえする前に生み出された。俺は儲けた気分で、全ての事柄に感謝していた。成功も失敗も関係なく、どんな仕事につくかでもなく、どんな生き方をするかに対してのみに俺は命を燃やし続けようと思った。
六、
その時の俺とお母さんとの関係は最悪そのもので、会話さえロクになく、常に罵り合っていた。二人暮しで、二人共に疲れ果てていた。違いは俺には夢があるという事で、お母さんはもはや人生そのものに疲れ果てていた。
俺の楽しみは銀行の通帳記入を眺めて、確かに貯まっていく「数字」を確認する事だった。それ以前から俺は「家計簿」というモノをつけ続けていた。それはいつからか俺の「趣味」となり、様々なお金の計算は速くなった。
必ず20歳の誕生日までに、定めた120万円が貯まる寸法だった。いや、無理をしてでも貯めるつもりだった。実際に貯まっていくお金を目で見て確認する為、封筒にも何万円かずつを入れてヘソクリの様に隠しておいた。
お母さんは事ある毎に俺にお金を要求し、俺は文句を言いながら常に何万円かずつを渡し続けた。
「20万円あれば後は楽になる、そのお金はいつか返せる」
兄ちゃんは俺に囁き、俺は20万円を渋々銀行から引き出したが、そのお金が戻ってくる気配など微塵もなかった。俺はまず、その20万円の穴を埋める為に何度でもマイナスからやり直す必要があった。
ある時、包丁を突き出しながら叫んだ事があった、
「俺はお前にお金を渡す為に新聞配達を続けとる訳ちゃうぞ」
お母さんは「殺せばええがな」と寂しそうに呟いた。
今思えば恥ずかしいが、俺は何かにとり憑かれていた。
そんな日々が続いたが、ある日書置きがあった、
「怖い人が来て、とても怖かったから、悪いとは思ったけど封筒のお金を抜き出しました。ごめんなさい」
俺は何も知らず、状況をわきまえてもなかった。お母さんの胸中を察して、恥ずかしいやら憤りやらで頭がイカれ、外に飛び出し交互二車線の道路のど真ん中をワーギャー叫びながら走り続けた。
ある夜、お母さんが言った、
「もうどっか行くわ」
「どっかって何処や?」
「どっか行ってもう死ぬんや」
俺とお母さんとの関係は最悪そのものだったが、俺よりも辛い境遇の奴などこの世には腐る程に存在するという事実、それを思えばあまりに俺は幸せ過ぎるとも感じていた。ガスは止まったままで風呂には何日も入ってなかった。俺は事ある毎に女の子の部屋でシャワーを借り続けていた。
女の子に御飯を作ってもらっても、たまに外に食べに行っても、俺には後ろめたさが常につきまとった。「お母さんはこんな物食べてないんじゃないか?」、俺は強く両手を合わせる事だけは忘れんかった。そして作ってくれる女の子にもそれを強要した。言われてするのではなく、あくまで自然にそうであってほしいと強く望み続けた。パチンコ屋で支給されるおにぎりやらパンの残りを俺は大事に包んでお母さんに渡し続けた。
どんな事があっても東京に行こうという気持ちが揺らぐ事はなかった。お金もほとんど貯まった2000年11月頃、大家が家にやって来た。家賃は3ヶ月分溜まった状態だった。
東京に出て行く為に頼んだ引越し屋のダンボールが玄関先には既に置いてあった。意地の悪い顔をした大家はそれを見つけて言った、
「引っ越すんか?ところでその前に家賃払ってもらわんと困るわ」
大家の言う事は全て正論だったが、俺の目は激しくギラつき、精神はいつも苛立ちに満ちていた。
「引っ越そうが何しようが関係ないやろが、払えばそれでええんやろが」
敬語も何も関係なく、俺は気付けば誰にでも吠え続けていた。
この大家はすぐに黙らせてやる必要があった。手数料を取られる時間帯だったが、そんな事に構わず俺は銀行まで原付バイクを走らせて家賃3ヶ月分を引き出し、そして大家に「これでええやろが」と激しく突き出した。
七、
いよいよ東京に出て行くその日、すなわち20歳の誕生日、俺は友達に電話をかけ、ワンワンと泣いた。とんでもない事が始まる、東京に出て行くその当日に初めてそんな気分になった。それは誇らしい気分でもあった。知人を頼りに東京に出て行く訳でもなく、俺よりも前に出て行った奴など一人もおらんかった。俺は一人で誰も知らん場所へと出向き、一人で全てを巧みに転がしてやるつもりだった。二番煎じなど真っ平御免で、俺は何かにとり憑かれていた。中学生の頃から何かと一緒に過ごした9歳年上の女の子にコロンビア製のカラフルなポータブルレコードプレーヤーを預け、「これはお前が持っとけ」と気取り、笑い、そして「何でこんな大事なモノを?」と彼女は泣いた。とにかく、とんでもない事をやらかす気分だった。
なんだかんだで120万円以上が見事に貯まったお金を全て引き出し、俺は夕方から仕事に出向くお母さん、トイレでうずくまるお母さんにトランプの様に万券を誇らしげに広げて見せ、「これ取っとけ」と気取り13万円を手渡した。
「ええんか?」
お母さんは呟き、そして笑った。
「冗談かと思ったらほんまに行くんか?」
「行くってずっと言うとったやろ」
関係は徐々に良くなりつつあった。
仕事に出向くお母さんを見送った。「元気でね」とお母さんはさり気なく手を振り、俺は顔を見る事さえ出来ず、自転車に乗るその背中をぼんやりと眺めながら果てしなく泣いた。
東京に出向く手段はバスでも間違っても新幹線でもなく、寝台列車だった。一番遅い便は「0時33分発」だった。俺は切符を受け取ったがその切符には誕生日の「12月13日」ではなく、日付が変わった「12月14日」と記してあった。俺はそれが気に食わず、一便早い「21時31分」の便に取り換えた。切符には希望通り、誕生日の「12月13日」と記された。寝台列車はバスよりも新幹線よりも値段が高かったが俺は一生残るであろうロマンを忘れたくなかった。
そしてお母さんに書置きを残した、
「頼むからもう死ぬなんて言わんといてね」
目の前では口に出した事もない言葉口調で書き綴り、俺は笑ってしまう程に泣き続けた。
夜、女の子が駅まで車で送ってくれた。その女の子は11歳年上だった。俺は当時、幸せな事に年上の女の子達に守られていた。勝手で我儘な俺みたいなモンに何人かの女の子達が優しくしてくれた。俺は優しくされる事に滅法弱い性質だった。そして俺は我儘で傲慢でありながら極度の寂しがり屋だった。
八、
引越し屋には預けんかった荷物、ハードケースやら大型バッグやら、3人分以上の荷物に値する大荷物を抱えて寝台列車に飛び乗る為にホームまで歩くと何人かの男と女、バンド仲間達がお忍びで見送りに来てくれており、ある女は陰で見守り、ある男は俺の背中を叩いた。俺は嬉しくて心底驚いたがもう泣くのは止めにしていた。気掛かりは東京に対する不安ではなく、お母さんが一人になってしまう事だった。兄ちゃんは卒業後一流企業の寮に入り、お父さんは何処で何をしとるのかまるで見当もつかず、お母さんは夕方から数時間工場で働いて小銭を稼ぎ、そして俺は何かにとり憑かれて続けていた。俺を乗せた寝台列車は着実に東京へと向かっていた。
続く。

P.S
俺の人生は多分、この18~19歳の時期に最も強い影響を受けとるといえる。貧乏性とロマン、風貌と目つき、人との付き合い方としつこさ、その他諸々だ。一円を馬鹿にする奴を心底ハナで笑い、出された御飯を平気で残せる奴を毛嫌いし、格好だけの宙ぶらりん野郎とは話す気にもなれず、デリカシーの欠片もない輩には殺意を覚え、「メシ」「金」「死ね」「殺す」などと平然と呟くファッキン野郎の言葉には耳を塞ぎ、嫌悪感を露わに示す様になった。
この時期の俺も今の俺もさほど変わってない気がするが、東京に出て来てからその気持ちはより一層強いモノになった。ある女は「東京に行ったら人間が変わってしまうんじゃないか」と俺の事を心配していた。俺は「お前は馬鹿か、今まで俺の何を見てきた?」とそんな心配には耳も貸してなかった。
東京に出て来てから俺の気持ちは逆に強くなり過ぎ、破れてほころびた服を好んで着続ける様にもなり、何から何まで風貌が汚くなった俺の事を今やお母さん本人が毛嫌いする様になってしまったが、「あの育て方がもしも計算だったとしたら」と考えただけで鳥肌が立った。
東京に来て実際に離れてから、俺はその素晴らしさに充分過ぎる程に気付かされた。
こんな話は今までほとんど誰にもした事がなかった。する必要もなかった。でも俺はこの時期の事を一番本にしたいとずっと思っとる。近頃はこの文章の事だけを考え続けた。俺は一体何を悩んどるのかといった気分になった。そして俺は何日か前からこの時期の事を書き出す作業に着手した。「時期は来た」と勝手に捉えるに至った。あの頃の事を鮮明に思い出せる事実が嬉しかった。振り返る事も悪い事ではないと、俺は思っとる。
関係性はこうやって築かれた。罵り合いながら築く関係を俺は愛している。バットしかし、それは「愛」があってこそだ。
料理を目の前に感謝を忘れない
両手を合わせていつもありがとうって思うよ
「お母さん、今日も御飯にありつけたぜ」
下北沢から遠くまで届ける
俺のお母さんが電話口に笑う
「あんた山程やる事があってええね」って笑う
「お母さん、まだ死んじゃ駄目だぜ」
俺がもっと偉くなる時まで生き続けてくれ
愛してる日々
東京に出て来て7年半が経過した2008年6月、こんな唄が意識さえする前に生み出された。俺は儲けた気分で、全ての事柄に感謝していた。成功も失敗も関係なく、どんな仕事につくかでもなく、どんな生き方をするかに対してのみに俺は命を燃やし続けようと思った。